最近、プログラミングのための文字列表現ベースの統合開発環境(EclipseとかVisualStudio、Xcodeみたいなもの)に視覚表現を統合する手法について、自分がやってきたこと、考えてきたことをまとめる作業をしている。僕にとって、文字列表現というのは視覚的なものとは対極にある存在だった。例えば、先に挙げたような統合開発環境とVisual Programming Language(LabVIEWやPureData)の違いを考えてみてほしい。

しかし、様々な文献を当たってみると、コンピュータにおける文字列表現は、その他の声や印刷のような言語表現よりも既に視覚的であるという論説が多く見受けられて非常に興味深かった。考えを整理するために、ちょっと書き下しておこうと思う。珍しくですます調じゃないのは、何となく頭のモードがそうなっているからで、とくに意識しているわけじゃないのにこうなるのは、面白い。

文字列表現=一次元的、視覚表現=二次元的

僕にとって、プログラムや普通の文章も含めた文字列表現というのは、一次元的な情報の提示手法だった。途中読み直すことはあっても、入力は常に先頭から末尾まで一方向の自由度しか持たないものだと思っていた。つまり、最初から読み始めて最後に到達するまでの間、具体的な情報をどんどん頭の中に入れていって、その中で意味のイメージを脳内に展開する必要がある。プログラミング言語が読める人は、脳内に字句解析、構文解析器を持っているのだ。

一方、絵や図といったものは、最初に全体像を何となく把握してから詳細に見ていくということが可能であり、二次元的な情報の提示手法であると言えるだろう。このあたりのことは、図の体系―図的思考とその表現 pp.48にも書いてある。この本は、図を用いた知的表現が具体的にたくさん載っていて、ページをめくるだけでも楽しい。

文字列表現は広義の視覚表現に含まれる

もう少し視野を広げて、スクリーンに表示された文字列、という観点で上記の文字列表現を捉えなおしてみると、確かにこれはその他の言葉のメディアと比べると視覚的な特徴を持っていることが分かる。

以降、声に対して文字は視覚的であり、印刷された文字に対してスクリーンに表示された文字列はより視覚的である、という二重の対比構造について説明する。そして、紙やスクリーンに表示された文字列表現は、絵や写真といった視覚表現と対立するものではなく、共に視覚に訴えるメディアとして補完的な役割を持つことを示す。

音声と文字列表現の対比

まず音声と文字列表現の関係について、声の文化と文字の文化という古典的名著に書かれている内容から、関係のありそうなところをかいつまんで説明すると、以下のようになる。

耳を通して聞くものだった言葉が、文字の発明によって目を通して視覚的に見るメディアになった。そして、学術ラテン語が西欧諸国で母語の発展と別に保存された具体例が示すように、時空間を超えて科学的知識を正確に伝承できるようになった。

さらに、活版印刷によって図と文字を共存させられるようになり、それらが相補的な役割を果たせるようになって近代科学の成立に寄与した。活版印刷による影響は他にも何点か、例えばページ数が決まったので索引をつけられるようになった、とか、タイトルページがつくようになった、といったことが論じられている。索引の件はハイパーリンクと関係があるので後でも触れる。

それにしても、全く想像がつかないのだが、声の文化が色濃く残っていた頃の本にはしばしばタイトルがなかったらしい。タイトルがあっても、本がタイトルページの代わりに読者への口上で始まることが多かったとか。これを知って思い出したのが携帯メールである。メールのプロトコルには件名があるのにSMSではなかったり、iPhoneのメールアプリのようにプロトコル上は件名があるのにデフォルトのUIでは件名欄を隠したりしているのは、声の文化への逆行を意味しているのだろう。

印刷された文字列表現と電子テキストの対比

さて、文字という視覚メディアになった言葉が、コンピュータによって電子テキストになってどうなったのか。ライティング スペース―電子テキスト時代のエクリチュールという本はハイパーテキスト、ハイパーメディアのすごさについて大々的に書きすぎていてちょっと主題と離れているが、それでもいくつか大事なことが書いてある。

まず、ハイパーテキストによって文字列表現に構造を与えられるようになり、アウトラインと文字列表現の間をスムーズに行き来できるようになった。また、ページ数ベースではなくコンテンツベースのハイパーリンクを貼れるようになった。視覚的にインタラクティブに追えるようになったのである。

ハイパーリンクについては、かつてページ数ベースでつけられていた索引情報がもっと自由になったということで、本書の中ではけっこう牧歌的に歓迎されている。しかし、僕はいいことばかりではないと思っている。Kindleで本を読むと、読むデバイスによって一ページごとに表示される分量が異なるので、ページより正確な文字ごとの位置にしおりをはさむようになる。ページ数の決まっていた本なら、左右どちらのページのどのあたりの位置にしおりをはさんでいたか視覚的に覚えていられた。ところが電子書籍では、しおりが本全体のうち何文字目という数値に還元されてしまって、むしろ視覚的側面が失われているのだ。

話を元に戻そう。保守的なライティング スペースである書物では長い歴史の中で培われてきた組版のルールに従って文字が整然と配置されているが、一方でスクリーン上の文字列表現は、けっきょくどのピクセルに文字をレンダリングするかということである。コンピュータは、組版のプロセスのデジタル化を通してルールを補強する方向にも働くが、一方でその自由度を増し、文字列を二次元平面上に自由な字体と大きさで配置できるようにも機能する。ワードプロセッサのソフトウェアを使えば、素人がルールに縛られず好きなように文字や図を配置できる。時に、動画さえ配置して、ハイパーメディアを作ることができる。そして、もっと本質的なこととして、現在のGraphical User Interfaceではアイコンと文字が共存していて、どこまでが絵画表現でどこからが文字列表現なのか言えないほどに相互浸透している。

まとめ

まとめると、言葉ははじめ、人の肉声によって聴覚的に伝達されていた。文字の発明によって二次元平面上に記述されるようになり、手書き本などにより時空間を超えて視覚的に伝達されるようになった。活版印刷により、文字の人から外在化された情報としての側面が強化された。図と共に正確な知識の伝達媒体として用いられることによって、近代科学の成立に寄与した。さらに、コンピュータでは人の操作を通してスクリーンの上でインタラクティブに文字情報を読み進めることが可能になった。GUIではアイコンと文字が相互浸透して区別がなくなった。

けっきょくのところ、僕の考えていた視覚表現(絵や写真)は狭義のものであり、文字列表現は多分に視覚的側面を備えているということだった。このように大きな視点でメディアをとらえられたのは僕にとってかなり重要なことである。これから書き上げる文章では、この二つを対立させるのではなく、あくまで相補的な役割を持つメディアとして強調することになるだろう。


No Comments

Be the first to start a conversation

Leave a Reply

  • (will not be published)